大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第三小法廷 平成元年(オ)1004号 判決

主文

原判決を破棄し、第一審判決を取り消す。

被上告人の請求を棄却する。

訴訟の総費用は被上告人の負担とする。

理由

上告代理人飯原一乗、同高橋伸二の上告理由について

一  原審の適法に確定した事実関係は、次のとおりである。

1  亡入江ミツは、その所有に係る第一審判決添付物件目録記載の土地建物(以下「本件土地建物」という)及びその長男である上告人の所有に係る土地建物を売却し、その代金をもつて上告人の居住する日野市豊田駅付近に新たに住宅地を購入してその家族と同居したいと考え、昭和六一年二月頃、本件土地建物の売却及び新住宅地の購入の媒介を住友不動産株式会社に依頼した。

2  被上告人は、勤務先の社宅に入居していたが、その社宅管理規程では、満四五歳に達する日の属する月の末日に社宅の貸与が修了するとされているところ、その時期が近づいてきたため、転居先を求めていた。

3  ミツ及び被上告人は、昭和六一年三月一日、住友不動産販売の仲介により、ミツを売主、被上告人を買主とし、売買代金八五〇〇万円、内金一〇〇万円を契約締結時に、残金八四〇〇万円を同六二年一二月二五日にそれぞれ支払う、本件土地の契約面積を登記簿上の地積二六四・〇七平方メートルとするとの約定で、本件土地建物についての売買契約(以下「本件売買契約」という)を締結し、右契約当日、被上告人から一〇〇万円が手付金として支払われたが、ミツの本件土地建物売却の目的が前示住居の買換えにあることについては、契約締結の際作成された同年二月二八日付けの不動産売買契約書にも後記4のとおり記載されたほか、専任媒介契約書にもその旨記載されており、被上告人もこれを了知していた。

4  本件売買契約においては、本件土地の面積として一応、登記簿上の地積(二六四・〇七平方メートル)を前提とするものの、本件土地が古い分譲地であつたところから、被上告人の申出により、契約締結後改めて実測し、実測面積に基づいて最終的な代金額を決めることとし、(一)ミツは所有権移転登記申請の時までに本件土地の境界を被上告人立会いの上確定させる、本件土地建物の売買面積は実測によるものとし、契約後、被上告人の費用で土地を実測し、登記簿上の地積との差については後記内入金支払の際清算する旨の特約条項が付されたほか、履行期に関し、(二)ミツは本件売買契約締結後、別に住居を探すこととし、その希望する物件が決まつたときは、被上告人は、右代金支払時期の約定にかかわらず、右希望物件についての契約締結時までに内入金七〇〇万円、同契約締結日より一か月以内に残金をそれぞれ支払う、本件土地建物の所有権は代金完済時に被上告人に移転するが、その場合、ミツは昭和六二年一二月二五日を限度として右代金完済後も五か月間本件土地建物の引渡しを延期することができる旨の特約条項が付された。

5  被上告人は、昭和六一年三月八日、約旨に基づき、本件土地の境界確定に立ち会い、自らの費用で本件土地を実測し、その結果、本件土地の地積は二六七・五一平方メートル、本件売買代金総額は八六〇九万八八八〇円と確定した。なお、右実測に要した費用は、売買代金額に比較して少額であつた。

6  ミツは、本件売買契約締結の前後頃から上告人とともに住友不動産販売に依頼するなどして移転先を探したが、昭和六一年から翌六二年にかけての首都圏の地価の上昇により、本件売買代金額をもつては新住宅の購入が困難であると感じるようになり、本件売買契約の解消を考えるに至つた。そこで、ミツの意を受けた住友不動産販売の担当者が、同六一年一〇月二九日に被上告人と本件売買契約の解消について話し合い、手付倍返しによる契約解除を申し出た。

7  しかしながら、被上告人は、右申出に応ぜず、前年の八月に山林を売却して所持していた四一〇〇万円、手持ちの株式及び預金のほか必要な資金については勤務先から融資を受ける手続をした上、ミツに対し、昭和六一年一〇月三〇日到達の書面により本件売買契約の履行を請求した。

8  そこで、ミツの代理人である弁護士木村峻郎及び同池原毅和が、被上告人に対し、同年一一月一四日到達の書面で、手付の倍額の金員を支払う旨口頭の提供をした上、本件売買契約を解除する旨の意思表示をした。

9  被上告人は、昭和六一年一一月二七日、川崎市所在の別の宅地建物を代金六五〇〇万円で購入し、以後、家族とともにこれに居住している。

二  原審は、右事実関係の下において、本件売買契約締結に際して被上告人からミツに交付された一〇〇万円が解約手付の趣旨を含むものであり、昭和六一年一一月一四日にミツより右手付倍返しによる解除の意思表示がされたことを認めながら、本件土地についての前記一5の実測による契約面積及び売買代金額の確定等が、本件売買契約に基づき、客観的に外部から認識し得るような形でその履行ないしその履行のために欠くことのできない前提行為をした場合に当たり、その後にされた同7の履行請求等が本件売買契約の履行の着手に当たるものとして、解除の効果の発生を認めず、残代金の支払と引換えに本件土地建物についての所有権移転登記手続を求める被上告人の請求を認容すべきものとして、これと同旨の第一審判決に対する上告人の控訴を棄却した。

三  しかしながら、原審の右判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。

1  解約手付が交付された場合において、債務者が履行期前に債務の履行のためにした行為が、民法五五七条一項にいう「履行ノ著手」に当たるか否かについては、当該行為の態様、債務の内容、履行期が定められた趣旨・目的等諸般の事情を総合勘案して決すべきである。そして、「債務に履行期の約定がある場合であつても……ただちに、右履行期前には、民法五五七条一項にいう履行の着手は生じ得ないと解すべきものではない」こと判例(最高裁昭和三九年(オ)第六九四号同四一年一月二一日第二小法廷判決・民集二〇巻一号六五頁)であるが、履行の着手の有無を判定する際には、履行期が定められた趣旨・目的及びこれとの関連で債務者が履行期前に行つた行為の時期等もまた、右事情の重要な要素として考慮されるべきである。

以上に説示するところに従い、本件において履行期が定められた趣旨・目的、履行の着手に当たるとされる債務者(被上告人)のした行為の時期及びその態様につき、以下、順次検討することとする。

2  まず、本件において履行期が定められた趣旨・目的について見るのに、売主ミツによる本件土地建物の売却の動機が、その長男である上告人らと同居するための新住宅兼店舗地購入代金の調達にあり、希望物件が見付かれば(その時期はもとより未確定である)、売主ミツは本件売却代金を被上告人より受領して希望物件の購入代金に充てる費用を生じ、他面、本件売却代金の受領と同時に本件土地建物を被上告人に明け渡すことは困難であるので、そのための猶予期間を置き、ただし、買主たる被上告人の立場をも考慮して買主の代金支払及び売主の本件土地建物明渡しの約定期限たる昭和六二年一二月二五日をもつて最終履行期とする合意が当事者間に成立した経緯を知ることができる(なお、以上の約定が、原判決指摘のように、売主の利益に偏しているといえるか否かについては、契約時八五〇〇万円の総代金中わずか一〇〇万円をもつて手付金としたこと前記のとおりで、これが買主にとつて有利であつたことはいうまでもなく、解約手付としての倍返しの額が少ないのは、このような有利性の反面にほかならず、原判決のいう売主に偏した有利さとのバランスが手付金の額によつて保たれたものといえよう)。

3  要するに、最終履行期を昭和六二年一二月二五日とする約定は、移転先を物色中の売主ミツにとつては死活的重要性を持つことが明らかであり、同六一年三月一日契約締結、最終履行期翌六二年一二月二五日という異例の取決めの中に、本件売買契約の特異性が集約されているということができ、被上告人の主張する「履行ノ著手」の時期が、(一)契約直後の同六一年三月八日の土地測量及び(二)同年一〇月三〇日到達の書面による口頭の提供が、最終履行期に先立つこと一年九か月余ないし一年二か月弱の時期になされたものであることに、特段の留意を要するのである。

4  次に、被上告人がその債務の「履行ノ著手」ありと主張する行為の態様について見ると、その(一)は前述の契約直後の土地測量である。実測の結果、地積が三・四四平方メートル増となつたが、実測の結果、公簿面積より地積が減少する場合も予測されていたことは、契約書七条二項の文面よりして明らかであるのみならず、この実測及びその費用(記録によれば一三万八〇〇〇円)の買主負担は、本件売買契約の内容を確定するために必要であるとはいえ、買主(被上告人)の売主(ミツ)に対する確定した契約上の債務の履行に当たらないことは、いうまでもないところである。

その(二)は、買主たる被上告人が、昭和六一年一〇月三〇日到達の書面をもつて、「残代金をいつでも支払える状態にして売主たるミツに本契約の履行を催告したこと」である。右は、もとより、売買残代金の現実の提供又はこれと同視すべき預金小切手の提供等の類ではなく、単なる口頭の提供にすぎない。

およそ金銭の支払債務の履行につき、その「著手」ありといい得るためには、常に金銭の現実の提供又はこれに準ずる行為を必要とするものではなく、すでに履行期の到来した事案において、買主(債務者)が代金支払の用意をした上、売主(債権者)に対し反対債務の履行を催告したことをもつて、買主の金銭支払債務につき「履行ノ著手」ありといい得る場合のあることは否定できないとしても、他面、約定の履行期前において、他に特段の事情がないにもかかわらず、単に支払の用意ありとして口頭の提供をし相手方の反対債務の履行の催告をするのみで、金銭支払債務の「履行ノ著手」ありとするのは、履行行為としての客観性に欠けるものというほかなく、その効果を肯認し難い場合のあることは勿論である。

5  以上これを要するに、被上告人が「履行ノ著手」ありと主張する。その(一)土地の測量はその時期及び性質上、買主たる被上告人の本件売買契約上の確定した債務の履行に当たらないことが明らかであり、また、その(二)昭和六一年一〇月三〇日到達の書面による履行の催告も、最終履行期が翌六二年一二月二五日と定められた本件の前記認定の事実関係の下においては、これをもつて買主としての残代金支払債務の「履行ノ著手」に当たらないことは、ほとんど疑いを容れないところといわなければならない。

四  以上のとおり、本件売買契約において履行期が定められた趣旨・目的・被上告人の行つた行為の時期及びその態様等に照らすと、被上告人による本件土地の実測及びミツに対する履行の請求等は、これらを総合してみても、履行の着手に当たらないものと解すべきところ、これを肯定した原審の判断には、民法五五七条一項の解釈適用を誤つた違法があり、この違法が判決に影響を及ぼすことは明らかである。この点の違法をいう論旨は理由があり、原判決は破棄を免れず、前示事実関係に照らすと、本件売買契約は有効に解除されたものというべきであり、被上告人の本件請求は棄却するのが相当である。

よつて、原判決を破棄し、第一審判決を取り消した上、被上告人の請求を棄却することとし、民訴法四〇八条、三九六条、三八六条、九六条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 可部恒雄 裁判官 坂上寿夫 裁判官 貞家克己 裁判官 園部逸夫 裁判官 佐藤庄市郎)

《当事者》

上告人 控訴人 被告 亡入江ミツ 訴訟承継人 斉藤重義 代理人 飯原一乗 外一名

被上告人 被控訴人 原告 山下善久 代理人 清水建夫 外三名

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例